「美しい」を定義する前に世界が美しいものであふれて困る

わあ好き!と思った事を書き殴るための場所です。書いた私も「正しさ」は信じていません。

アイドルという言葉で表しきれなくなった嵐の今とこれから

全ては、「嵐はアイドルでしかないのか?」という議題を考え始めたことから始まった。

 

嵐は、アイドルでしかないのだろうか?アイドルではない側面もあるのでは?

この議題について書いていきたいと思う。

 

とはいえ、まず最初にこれだけは言わせてほしい。

 

「嵐はアイドルである」

それ自体は揺るがない事実だ。嵐もそれを誇りに思っているように感じる。「僕らはアイドルだから」という言葉をそれぞれのニュアンスで、何度も発信してくれている。

一嵐ファンである私にとっても、嵐がアイドルであることは確固たる事実であり、誇りだ。

 

しかし、いついかなる時も嵐は「アイドル」としての側面しか持っていないのか?と問われれば、私の答えは「否」である。

 

私の「アイドル」の認識が変わっているのかもしれない。私にとってアイドルとは、「ファンに夢を見せる存在」だ。

「夢を見せる」という言葉に注釈が必要だろうか。アイドルは直訳すれば偶像、すなわち「求められた理想の姿になってくれている人」だ。

ファンの望む、理想の世界を築き上げるのがアイドルの仕事だと私は思う。

この認識で考えてみて欲しい。

昨今の仕事は全て、嵐が「アイドル」だから依頼されたものだろうか?

 

嵐がこれまでやってきた仕事は、歌と踊りに加えて

キャスター・俳優・動物番組・個展・演出家・スポーツ番組・歌番組司会・バラエティー司会・ナビゲーター・サポーター・作詞・作曲

などがある。もちろん、まだまだあるが書ききれないのでとりあえずこれくらいに。

 

これら全ての仕事が、彼らのアイドル性によって依頼されたものだとは、私は思えない。

「アイドルであること」が依頼の一因ではあったかもしれない。しかしそれだけでは実現していないだろう。

 

※ここでは社会的に見て嵐は一体どういう存在なのか、ということについて書いていく。はたから見て嵐はどういう存在なのか、ということを議論する。

従って、内部的理由である「とても努力したから」「才能があったから」という理由は、真偽に関わらず(私はもちろん真だと思っている) 、ここでは無視させてもらう。悪しからず。

 

嵐が携わってきた全ての仕事で「アイドルであること」が求められたかといえば、それは違う。アイドルではない役割を担ってきたことも数多くある。

視聴者の理想像であり続けたら、彼らの発する情報の正確性は失われる。「アイドル」は「正しいこと」よりも「求められていること」を言うのだから。

伝えたいことを伝えるための仕事(ナビゲーターやサポーターなど)が圧倒的に多いのは、嵐の「アイドルではない役割」を買われてのことだと思う。

 

「嵐にこの仕事をしてほしい」は、「アイドルにこの仕事をしてほしい」で内包できるものではないように思う。ここ数年は特に。

アイドルの語源通り、「理想像」であることだけを目指すなら、できなかった仕事がたくさんある。

 

嵐はアイドルであるが、アイドルを超えた役割・能力・影響力も同時に持ち合わせていると思う。

「嵐」という言葉は、もはや「アイドル5人組」以上の大きな意味を持っているのだ。

 

 

純粋なアイドルを否定しているわけではない。「アイドルしかしないアイドル」には、“アイドルしかしない”ことによってしか出せない輝きを纏っている。

「正しいこと」よりも「求められていること」を伝え続ける彼ら或いは彼女らは、本業で最高に輝いている。自分の美学に則って、人々に夢を与え続けている。その姿は本当に美しい。

 

ただ、嵐はそういう存在ではないのではないか、と言っているだけだ。

嵐は「アイドル」という言葉だけで表現するには難しい存在になってしまった。もちろん今でもアイドルだが、それは嵐の一面に過ぎない。「アイドル」という言葉だけで彼らの社会的役割を表現するのには無理がある。

 

 

アイドルではない、嵐が持っている役割とは何か?それを言語化したくて悩んでいたのだけれど、多分、嵐は「アイドル」に加えて「メッセンジャー」の役割を得たと言えるのではないか、と思う。

 

メッセンジャーとは、

「世界にある真実を知り、正しく伝える人」

である。

加えて、「届けたい人に情報を届けられる影響力を持ち合わせている」ことが必須条件である。

嵐は、この「メッセンジャー」という役割を、かなり長い間担ってきたように思う。いつからだろうか、嵐も自身のことをメッセンジャーだと捉え始めたように感じる。

「こんなにたくさんの人が僕らに関心を持ってくれているなら、僕らを使ってその人たちに届けたい情報を届ける手伝いができるはずだ」と、そう考えたのではないか。

嵐にとってこれほど適した役割もないだろう。

ただ一つ、彼らがアイドルであることを除けば。

 

 

 

 

本来、「アイドル」はメッセンジャーではない。

「アイドル」は「夢を見せる存在」だ。

「真実を知り、伝える」「正しい情報を届けたい人に届ける」メッセンジャーとは真逆の役割と言える。

けれど、嵐は本当にうまく、「アイドル」と「メッセンジャー」の両立を図ってきた。時にこちらが引くほど繊細に、時にこちらがため息をつくほど鮮やかに。

彼らはトップアイドルだ。「求められていること」に応えるプロだ。その真骨頂がここに現れたのだ。

その結果、今の嵐はアイドルとメッセンジャーを兼ねた存在となった。

 これは、簡単に言えば

「正しくて、影響力があって、人に夢を見せる力がある人」

である。

 

これが結構すごくて、結構ヤバイ事態だというのは分かるだろうか。

そのことを知るためには、「嵐はこれからどういう存在になるかもしれないのか」を考えるといい。

このまま嵐が輝きを増していった結果、嵐が限りなく近づくのは何だかわかるだろうか。

 

 

 

 

俗っぽく言ってしまえば、これは

「神」

だ。

嵐はこのまま行けば神になってしまう。

 

 

アイドルが正しさと影響力を増して輝き続けた結果、行き着く先は「神」だ。「神格化」だ。

私たちの理想であり、社会的に正しいことを常に発信していて、言うことに従っていれば幸せが訪れ、周りもみんな付いていっている。そんな存在はもはや神だ。

誤解のないように言っておくと、この『神』は別にgodじゃない。「崇拝可能な存在」という意味だ。

 

嵐は、「『神』になりたくなかった」。

『神』として扱われたくなかった。人間として生きていたかった。

 

この記事で書きたかったのは「神になりたくなかったアイドルの今」である。

 

 

嵐はここ数年、「いかに神格化されないか」に細心の注意を払い、あの手この手で防いで来てくれたように思う。

彼らは『神』にはなりたくはなかったがゆえに、リスキーだとわかっていても時々牙を剥いたりふざけ倒したりしてきた。距離感の近さをアピールしてきてくれた。

 

もしかしたら、「別に『神』になってもいいじゃない」と思う人がいるかもしれない。

確かに、ありのままの自分をさらけ出し、それが人々に崇拝されるようになったのならそれもいいかもしれない。

しかし今、崇拝されようとしているのは「彼らを使ってみることができる理想像」なのだ。彼ら自身ではない。

しかも、時々その理想像を彼ら自身と混同し、ありのままの姿だと誤認する人も少なからずいる。(混同させ、誤認させるのがアイドルの仕事だから、これは彼らが素晴らしいアイドルであることを同時に証明してもいるのだけれど。)

「彼らを使って見せる理想像」が彼らを離れて一人歩きすることは、彼ら自身にとって、とてつもない苦痛になることは想像に難くない。

加えて、神格化された人はどんなに頑張っても二度と「普通の人」には戻れない。どれほど普通の人っぽさをアピールしても、「そんなすごい人でもこんなことするんだね〜」で終わりだ。「神格化」は揺るがない。

 

だから嵐はたった一度でも神格化されてはならなかった。限りなく神格化に近いことは起きてしまっても、絶対的な「神格化」はなんとしてでも防ぎたかった。

「神格化」は自らに刃先を向ける刀であり、戻れない一線であることを、彼らは重々理解していたからだ。

 

 

ただでさえ、「正しくて、影響力があって、人に夢を見せる力がある人」はもう、そうでない存在にはなれないのだ。よっぽどのことがない限り。

どんなに辛くて苦しくても、「辛い」と声を上げることすら大きな影響力で伝えられてしまうし、「やめる」と言って簡単にやめられる役割ではない。

この役割を降りたつもりで気軽に発した言葉が「正しいこと」としてたくさんの人に受け止められてしまったらどうする?

素直な発言より、自分の言動による一歩先の未来が重要なことに見えてしまうのは、当然だろう。

 

アイドルとメッセンジャーを兼ねている以上、どんなに頑張っても「正しさ」も「影響力」も「夢の大きさ」も大きくなっていくだけだ。上手くやれば上手くやるほど、大きくなっていく。

しかも、「正しさ」と「影響力」と「夢」がある人は、ずっと人気がある。ずっと人目を集め続ける。ミッキーマウスも、アンパンマンもそれを証明している。

 

これは、辛い。周りから見たら楽しくて輝いていて幸せそうにしか見えないけど。いや、そうとしか見えないからこそ、辛い。どんどん身動きが取れなくなっていく。

今は笑って耐えられても、いずれタイムリミットが来る。壊れてしまう。

役割が破綻するか、『人間』であることを諦めるかの未来しかない。

 

 

 

しかし、その事態は免れた。

最終的には5人の意思で、休止発表をしたからだ。

 

私が「解散ではなく、活動休止」という記事https://poiuytrewqzx.hatenablog.com/entry/2019/03/05/204645  で書いた、

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はそういう意味です。

 

 

あれからの言動を見ている限り、「耐えられるリミットがある」と気づいた時点で休むことを考えた大野くんと、

耐えられる限り耐えようとしていただけでリミットの存在自体は理解していた相葉くん、

リミットがあると理解したから対策を考えた翔くん、

今のままの役割で擦り切れて死ぬなら本望だと思っていた二宮くん、

何らかの形で変えなければならないと思っていた潤くん、

という感じがする。

私の独断と偏見に過ぎないけれど。

 

 

無論、嵐が「神格化」から逃れたくて休止を決めたとは思わない。そんな傲慢な考え方をあの5人はしないだろう。

また、「休止すれば確実に嵐が神格化されない」とは言えない。

 

 

ただ、今嵐を取り巻いている状況と、休止によって起き得る変化は、「神格化とその中断」と言えるのではないか。

 

私個人がそう思ってこの記事を書いたにすぎません。

 

 

 

 

しかし、彼らが「トップアイドル」になれたのもまた、アイドルである彼らがメッセンジャーを兼ねたおかげであると私は思う。

 

 

逆説的ではあるが、アイドル性に加えて「アイドルでは説明しきれない性質も持ち合わせていること」が彼らを“トップアイドル”たらしめているのだと思う。

「アイドル」に加えてもう一つの面があったから、彼らはアイドルのトップへと上り詰めることができた。

「アイドル」じゃない面も増やしながら、同時に「アイドル」としての面も決して揺らがなかった彼らだからこそ、このアイドル戦国時代に国民的アイドルになることができた。

さっきもちょっと書いた気がするけど、アイドルでありながらアイドルじゃない役割の要望も満たすなんてこと、「求められている姿になるプロ」じゃないとできないのだから。

さらに、そんな大技をこなしながら嵐は「嵐であること」とはどういうことかを一度も見失わなかった。

 

これは「嵐とは何かが常にわかっていた」という意味ではない。

「常に嵐とは何か、考え続けもがき続けながらそれだと信じられるものを5人で共有し、ファンに示し続けてきた」という意味だ。

自分たちが今どんな立場にいてどんな影響力があるのかを把握して、それでも大きくなり続けてきた彼らだからこそ、嵐を「嵐」のまま大きくすることができた。

嵐は、そういう道を歩んできた五人組だ。

 

 

嵐が「アイドル」という言葉で表しきれないなら、ではあの五人とは一体どんな存在なのか?彼らの職業って何なのさ?とお思いの方もいるだろうか。

メッセンジャーを兼ね備えようが、アイドルを超えた役割を得ようが、「彼らってなんなの?」という問いに対する答えは、実は一つしかない。誰がなんと言おうが、最初から一つしかない。

忘れていたのか?彼らは最初から言っていたではないか。「職業名として僕らのグループ名を上げられるようになりたい」と。

今こそ、その時だ。下手に勘ぐる無粋な輩は黙ってしまえ。

 

 

 

 

 

彼らは、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長文をお読みいただきありがとうございました!!