「美しい」を定義する前に世界が美しいものであふれて困る

わあ好き!と思った事を書き殴るための場所です。書いた私も「正しさ」は信じていません。

星が瞬くように。

※この記事は全く根拠のない妄想記事です。あくまで私個人の考えであり、ソースもほぼありません。それを念頭に置いて、それでも読んでくださる人だけがこの先を読んでくださると嬉しいです。考え方が合わなければ、即閉じて忘れてください。よろしくお願い致します。

 

 

 

 

皆様お元気ですか?久しぶりに嵐の記事です。

嵐が活動休止期間に入ってから、いかがお過ごしでしょうか。

このブログの他の記事を読んでくださっている方はわかると思いますが、正直私は嵐だけを応援している人間ではありません。でも、「いつも嵐がいたところに嵐がいない」という切ない違和感のようなものはふとした時に胸に押し寄せてきて、不思議な気持ちになることがあります。

 

今回は翔くんの話がしたくてブログを書きました。長いのと根拠がないのとでブログになっております。

 

 

私が今1番心配なのは翔くんです。

彼は嵐が1時的に畳まれることが本当に辛そうで。休止してほしくないファンに寄り添っているのかと思っていましたが、そうではなくどうやら本当に辛そうだな、と思いまして。

 


今年に入ってからテレビで翔くんが嵐のメンバーのエピソードを話してくれると、最初は「相変わらず連絡取り合ってるんだ〜」って嬉しくなっていました。でも、特に今月に入ってから、エピソードを聞いても思ったよりも喜べなかったんです。むしろ心配になってしまった。嵐休止期間を休止してないかのように見せたいの?翔くんは休止してないかように思いたいの?休止は、目を背けたいほど辛いものでしかないの?って。

どれだけ嵐のメンバーと仲良くしていても、嵐を思って苦しんでいても、それが「嵐が活動できないないせいで俺は不完全で、今こんなにも苦しい、メンバーと触れ合うっていう嵐の擬似体験をしてなんとか保ってるんだ」って言ってるように感じてしまって。 

 

休止に入った直後だから一時的に辛いだけかもしれないけど。時間が全て解決してくれるのかもしれないけど。

テレビとかはタイムラグあるから、今日のあなたはもうそのトンネルから抜けていると良いなと思いながら書いているけど。

 


翔くんの瞳に映る世界で、嵐のあとに星は瞬いているのだろうか。

虹はかかっているだろうか。

宝箱はしっかり閉まったのだろうか。

 

 


voyageで自分の感情がわからなくなってきたと語った翔くんのことを思い出し、

展覧会で見た推敲されていく5×20の歌詞について思い出し、

先日の夜会で「休止から20日連続で嵐の夢を見ていた」と語った翔くんのことを思い出してしまった。

 


そういえば、「休止したって何度でも会う」と発言したのはほぼ全て翔くんだし、現在の5人の絆は翔くんの求めによって動いている気がする。活動再開の外堀を一人でざっくざく埋めていったのも翔くんだし、活動再開時期について話してますって言ったのも翔くん。

 


おそらく彼は、側から見ている人の言葉で言えば「休止が辛いものでしかない」。でも櫻井翔から見ればそこには数しれない葛藤と底知れない苦悩があるはず。だって、彼は活動休止を肯定はすることも否定することもできないから。

 

 

活動休止を否定できない理由、それは嵐を否定することができないから。

翔くんにとって自分の一部である嵐を否定することは、今まで全てを投げ打ってきた理由を否定することだから。そんなの、できるわけがない。

 

大野さんが嵐の活動を休みたい限りは5人でないと嵐でないから休まざるを得ない。でも何が1番良いかと言えば5人で嵐として活動したい。休止期間は辛い。ねえ早く大野さん戻ってきて!という感じなのかもしれない。翔くんの嘘偽らざる気持ちとしては。無意識との本心としては。


でも嵐を好きでいたいために嵐が下した決断を何一つ否定できなくて、結果的に決断と噛み合わない自分の意思をどんどん殺していっているような気がしてならない。

 

 

 

では、活動休止を肯定できない理由は何か。

翔くんはなぜ活動休止がこれほどまでに辛く感じるのか?なぜこれほどまでに「休止」というものを拒んでいるのか?と考えた時にふと思った。

翔くん、もしかして「嵐、活動休止して良かったね」=嵐の活動の否定 だと思ってる?

あなたにとって活動休止の肯定は嵐の否定につながるんじゃない?だから頑なに拒んでるんじゃない?

だとしたら色々腑に落ちる。

嵐として活動した栄光や幸せを肯定するには、嵐を畳んだこの状況を否定しなければいけないと思っているから、活動休止は苦しいものなのかもしれない。嵐を愛する者として今は苦しんで然るべきだと感じているのかもしれない。嵐愛と活動休止期間を受け入れることは矛盾していると思っているのかもしれない。

 


でも。

断じてそんなことはないからね!!!!!!

 


活動休止の肯定と嵐の否定は別問題だからね!!「嵐が活動休止に入って嬉しい」とか「嵐が活動休止して良かった」とか言うのは嵐を裏切ってる訳じゃないからね。

だって、嵐が活動していた期間は活動休止とは違う時間なのだから。5人も、周りの環境も、違うところがたくさんある。活動休止はタイムマシンでデビュー前に戻って、嵐という存在をかき消す行為じゃない。2021年からの嵐が進む道を選ぶ決断だ。

2020年までの5人は嵐でいることがベストで、2021年からの5人にとっては活動休止がベストなんだよ。きっと。

少なくとも嵐にはそう思ってほしい。

 


むしろ「活動休止して良かったと思えること」、それこそが活動休止した理由でしょう?

今まで見たことない景色を見てみてほしいよ。

 

 

 

じゃあ、今の翔くんにとって活動休止ってなんだろうって、翔くんは活動休止にどんな感情を抱いてるんだろうって思って考えてみたんですね。で、おそらくですが「少なくとも今はこう思ってるんだろうな」という考えとして出た結論がこれです。

 


翔くんは活動休止期間を愛していない。

活動休止という決断自体を愛しているわけじゃないが、再結集のために必要だから受け入れている。

再結集しなければ、辛くて仕方がない「活動休止」を行った意味がなくなってしまう。

 

 

 

憶測でしかありませんが、こう考えるとなんだか合点がいくのです。
ああ、だから翔くんは再結集に必死だったんだ。だからだったのか。

翔くんにとって活動休止は再結集とセットでなければならない。そうでなければただの受難でしかない。

 


たとえば、ある人がまずくて嫌で嫌で仕方ない薬を、また健康になるために飲むように。

その人にとって、不味くて仕方ない薬は「また健康になりたい」という願いを叶えるために受け入れている苦難だ。だから、もし薬を飲んでも健康にならないよと言われたら、薬をすぐに投げ捨てるだろう。でも、「まずい薬を飲んでも健康にならないかもしれない。ただし飲まなければ絶対に良くならない」と言われたら?たぶん、飲み続け、健康になることを祈り続けるだろう。なぜなら、飲まなければ後悔するだろうし、飲んだのに治らなければ、ただただ辛い期間を歩んだことになるからだ。

 


翔くんはそれと同じことをしている気がする。

このまま永遠に嵐を続けることはできなくなった。休止すれば嵐再結集が確約されるわけではないが確率は高くなる。休止は辛いけれど、再結集によって人生トータルで嵐としていられる期間が長くなる手段であるならば。休止という選択をするだろう。

翔くんにとって「嵐として活動できる」ことはどんな苦難にも耐えられる希望だから。

だけど、そこでもし「休止したけど再結集は未来永劫ないよ」と言われたら、翔くんにとっての休止の意味は消え失せる。ただただ辛い期間を選んだことになる。辛さに耐えた日々の無意味さを思って発狂してしまうかもしれない。強硬手段を使ってでも休止を断念させ、壊れるまで嵐として活動したほうが良かったとさえ思うかもしれない。

翔くんにとって休止は、それほどまでに辛いけれど「嵐」という希望のために受け入れたものなのではないかと思う。意識下の本心としては。

翔くんが「本心」だと思っている気持ちはこれなのかなあと思ったりする。

少なくとも今は。

 

 

 


でもね。その考え方はすごくすごく危険だ。なぜなら、あなたが何よりも愛したい嵐を愛せなくなるかもしれないから。

 

ねえ、翔くんは今の状態で、嵐でいたことを誇れる?あなたの心を苦しめる決断をした嵐を愛せる?あなたが抱きたい無意識下の感情を抑圧してくる嵐のことが好きでいられる?「嵐を愛したい」と思うあまりに納得いかなさや拒否感をねじ伏せて、そんな不完全な心では何も愛せなくて、このままだと「嵐を愛したい」という感情だけを残して他は消えてしまったりしない?嵐を愛せていた頃、すなわち嵐活動中を回顧するだけの人になってしまったりしない?

 

そうなってしまったら、嵐を愛することはとても難しくなる。でもそんなの、辛いから。

私個人は活動休止することが寂しかったけど、それでも「嵐に活動休止をつらく感じてほしい」なんて思ってない。活動休止を受難のように捉えてほしいなんて思えない。「活動休止して良かったね」って思わせてほしいんだ。嵐のせいで苦しんでいる嵐なんて見たくないから。

 

 

 

 

翔くんが活動休止それ自体を愛せる方法があれば良いのだけれど。「辛いけど自分の望みのためには仕方ないもの」ではなく「それ自体好きなもの」になれば。

例えば「21年間嵐として活動し」「今嵐が活動休止している」からこそできるような仕事に出会えたら。嵐として過ごした時間も、活動休止も、両方が不可欠な場面に出会えたら。嵐の活動を肯定しながら活動休止を肯定できるんじゃないかって。たとえば今度のドラマがそうなったらいいなあ。

 

 


書いて初めて気づいたけど、私は嵐に活動休止を愛してほしいんだなあ。私は、再結集のためではなく、活動休止自体に意味を見出してほしいんだ。なぜか。それが、ファンの立場である私が「5人にとって活動休止が必要だったのだ」と心から思える唯一の手段だから。

活動休止は「嵐のための」行為だ。ファンのための行為じゃない。いや、巡り巡ってファンのためなのかもしれないけど、直接的にはファンのための行為じゃない。 

だから、きっと必要なんだよねとわかったふりして送り出したけど、活動休止が本当に有意義な選択だったのか、嵐本人ではないファンがわかるはずもないんだ。でもファンは「やっぱり5人にとって活動休止は必要だったんだね」って思わせてほしいと願ってしまう。あなたたちが好きで、あなたたちの選んだ道を応援したいから。

世界は勝手に目まぐるしく動くから、意味なんて後付けでいい。「今考えるとこうしてよかった」「後から考えればすごく良かった」そう思ってくれたら、私はただ嬉しいのだ。

 

 

あと、翔くんは根っからの嵐ファンなんだなあと思った。(ファンの私が書いてるからかもしれないけど…。)そんな嵐ヲタクで嵐ファンな貴方が大好きだよ。

 

 

貴方が、嵐の後の夜空に瞬く星を見つけられるといいな。

いや、言ってしまえば今夜は星は見えなくてもいい。曇りでも、大雨でもいい。ただ、どうか夜空を見上げることに怯えないで。今日星が見えなくても貴方は幸せに生きていいのだから。

あなたが「今日星あるかなあ」と毎晩夜空を見上げられますように。

 

 

 

 

 

長々と書いてしまいました。ここまでお読みいただきありがとうございました!!