「美しい」を定義する前に世界が美しいものであふれて困る

わあ好き!と思った事を書き殴るための場所です。書いた私も「正しさ」は信じていません。

二宮和也は水だ、透明な流体だ。

だいぶ前から書きたかったことをようやくブログにしようと思います。

まあそれは裏を返せば「書きたかったのにずっと書けなかった」ということであり、それほど言語化が難しいので今回のトライが成功するかもわからないのですが。

頑張ってわかりやすく書きたいな。

 

 

 

タイトルにもしましたが、「二宮和也は水だ」という話をしたいなと思っています。

二宮くんはどこかで「水みたいな人になりたい」と過去に言っていた気がするんだけど、私にとっては貴方はまさに水のような人です。

これは水属性だとか水色のイメージだとかいうことではなく、概念が「水」なのです。色を持たない、形も持たない、透明な液体のような人。

 

なぜ二宮くんは水のような人なのか。

そのためにはまず私なりの水の概念の話をする必要があります。

あくまで私なりの概念の話ですので、科学的には違うところもあるかとは思いますがお許しください。

 

私たちは、「水の正体」を見ることができません。

例えば器に入った水を見ている時、私たちは水というものを見ているように感じます。

しかし、実際は「器の形になった」「器の色味を反映した」水を見ているのです。

そこに水があることは認識できても、水の色のうちどこまでが本来の水の色なのかは分からない。器の色味なのかもしれない。あてている光の色味なのかもしれない。

私達は水をそれ単体で見たことはほとんどなくて、見ることができたとしてもそれはほんの刹那です。いつも容器の色を反映していたり、光の当たり具合で大きく印象を変えてしまう。

水の、水のみでのあり方なんて見たことないんです、本当は。

でもほとんどの場合において容器に入った水を見続けると、それが水の本当の姿な気がしてしまう。

水は、「自分がどう在るか」を自分の中で完結させるのではなく、外界との接触によって形作っていく。

そういう性質を持つのが「水」という概念なのです。

 

ここまで読んでくださったらお分かりかと思いますが、二宮和也は水のような人ではないでしょうか。

水のように、「あるようでないような本当の姿」が二宮和也の真骨頂ではないかと思うのです。

いつだって周りにさらりとなじみ、輝きを放っていて、そこにいることはわかるのに、それが「本当の姿」なのかと言われるとわからない。だって、あなたの他の姿も知っているから。

 

特定の色や形を持たず、変化し続ける様が美しい。色味も形も相手に委ねられているけれど、それでも常に「自分」というのはとても掴みにくい形で確かに存在している。

自分を輝かせるためにできることは「何に入り、どこを流れ、どんな光を浴びるか」という選択。

二宮くんはそういう在り方をしているし、自分を輝かせるための選択がすごく上手い。

 

また、何かに染み込む、馴染むことができる性質も二宮くんは持っているように思います。

どんな人と一緒にいても、どんな空間でもスルリと溶け込んで馴染んでしまう。「浮いている」様子を見たことがない。

それでいて同時に蒸発してしまいそうな危うさも持ち合わせているのです。やはり、水のような人です。

 

澄んでいるところも水のようだなと思います。

二宮くんはどこまでも澄んでいて、クリアです。タッチの柔らかさも自由自在です。

他人へのタッチがどれだけ柔らかくなっても固くなっても、熱くなっても冷たくなっても、唯一変わらないのがその思考の透明度だと思います。

二宮くんの考え方はいつもクリアです。いつだって明快で、驚くほど澄んでいます。

私たちが「まあいっか」で流せるような濁りも、ありありと浮き彫りにさせるほどに。淀みの中にあったら気づかない、うっすらと書かれたな道筋をあっさりと見つけられるほどに。

だからこそ、二宮くんは他の人とは違う観点でこの世界に問いを投げかけることができるのだと思います。

 

二宮くんは冗談好きだったり嘘が上手なイメージが勝手にありますが、それは二宮くんがいかなる時も「今話している言葉は真実か、嘘か」を考える、濁りを嫌う人だからではないかと思います。

二宮くんはいつだって言葉に真摯です。自分の意図と、発する言葉にズレがないか、いつもクリアに見定めて言葉を操ります。

自分がまっさらで、ゆえに瞬時に嘘を嘘と気づきつつも嘘をつくから、「嘘」のイメージがあるのだと思います。とてもクリアで、二宮くんらしいなと思いながらわたしはベイストを聞いています。笑

 

また、二宮和也には色がないように思います。

それはモノクロな人間だという意味ではありません。無色透明で何色にもなれるということです。

二宮くんは何色にもなれるがゆえに「二宮和也色」が存在しない。

今目の前にいる二宮和也が何色なのか、私たちはいつも考え、感じている。

その「考えさせる」行為こそが、二宮和也を追う醍醐味だと私は思います。

この色のなさが彼が演技で輝く理由の一つだったりするのかなと思います。二宮和也でありながら何色にでも染まれる人が、スクリーンで輝くのは自明なのかもしれない。

 

おそらく二宮くんは、「嵐・二宮和也」というアイドルに、二宮くん自身の自我を持たせていません。

あくまで「嵐・二宮和也というアイドル」の自我によってあの天才的アイドルは生きています。それゆえに、「アイドル二宮和也」を見ている間は、私たちは“二宮くん”の自我を掴むことができません。

「アイドル二宮和也」は色も形も持たず、同時に無限の色や形を持ちます。なぜなら受け取り手=器 の形の数だけ二宮和也の姿があるからです。

「アイドル二宮和也」は、受け取り手である私たちの持つ「二宮和也ってこんな人だよね」という形の器に流れ込んでくるからです。

つまり、「アイドル二宮和也」は、その型取りを相手に委ねているのです。その器に「二宮和也」という透明な流体を流し込むのが二宮くんの仕事。

だから、いつだって見ることができる二宮和也の形は、「私たちが描いている二宮和也」の形です。

そんな二宮くんをずっと見ていると、「私の描くあなた」が“本当のあなた”なんじゃないかという気がしてしまうのです。実際は二宮くんは水のような人で、ただこちらが持つ器の形に流れ込んできてくれているだけなのに。

その錯覚こそが、二宮和也を輝かせる光の一つだと思います。

 

だからこそ、二宮くん自身の決断を目にする機会があると、「二宮くんって二宮くん自身の形があったのか」と驚いてしまう。

「アイドル二宮和也」は私たちの望む形に流れ込んできてくれる「水」だから。

水のみでの水の姿を見ることができないように、「何かの影響を受けた自分の姿」しか認識できないと分かっているからこそ、二宮くんは素を出し、素を出さない。

そんな彼の、時々見える「二宮和也自身がかたどった二宮和也の輪郭」を覗き見るのが、私は結構好きです。

 

 

色も形も硬さも変えられるのに、それでも私たちは二宮和也を「二宮和也だ」と認識することができる。

でも、ではどこの部分から「二宮和也だ」と認識しているのかと聞かれると難しい。そんな風に感じます。

 

二宮くんは「二宮和也が欲しい」という人の持つ、「二宮和也」の器に真っ直ぐ流れ込んできて、その人の中にある二宮和也の形をした「二宮和也」を作ってくれる。

追わなければ明快にあるその輪郭は、追えば追うほど魅惑的に揺らいでいく。

 

純粋で透明で流体であるがゆえに、そのまま在るのにその姿が掴みにくい人。

あなたはあなたのままでいるのに、「あなたってどんな人?」と聞かれてしまう人。

でも、どう変わってもその存在を認識してもらえる人。

 

 

 

だからこそ、私は二宮和也に惹かれるのだと思います。

だからこそ、彼はたくさんの人を、いつまでも惹きつけ続けるのだと思います。

 

 

二宮和也というアイドルがわたしは大好きです。

 

透明な流体のようなアイドル、二宮和也さんに敬意を込めて。