この世界に愛されたくて。
突然ではありますが、櫻井翔の自伝映画を撮るならタイトルは「この世界に愛されたくて。」で撮りたい。
スポンサーの都合で無理なら(急にリアルを入れてきた)チラシの一番目立つところにこの文章を入れます。
こんな感じ。
それほどまでに、櫻井翔の人生において「世界」と「愛される」は重要テーマです。外せない。
だって、櫻井翔ほど能動的に「世界に愛されたい」と思って生きている人が他にいるだろうか。
彼は決して世界に嫌われてはいないけれど、それでも尚、貪欲に愛されることを求めて生きているように思います。
加えて、翔くんは「この世界に愛されるためには、まずは自分がこの世界を愛するのが当然だろう?」という覚悟のようなものを持って生きている気がします。
それは、翔くんの周りの世界が翔くんに冷たい時も、世界が翔くんに優しい時も、いつもそう。
自分の周りの状況に関わらず、彼は能動的に世界を愛そうとする。
「この世界を愛したい」「この世界に愛されたい」という思いが人一倍強いからこそ、「世界」への理想も強くなり、ものすごく純粋な視点で世界の汚いところに憤っている。
世界にどうしても存在する粗のようなものに真正面からぶつかっている。それが、よく言われる「反骨精神」なのではないかと思います。
「櫻井翔の反骨精神」は度々クローズアップされますが、彼の反骨心は厭世観じゃない。斜に構えるのがかっこいいと思ってるわけでもない。「俺は世界を愛したいのにどうして世界はこんなに汚いんだよ、もっと素直に世界を愛させてくれよ」「俺が堂々と愛せる美しい世界でいてくれよ、なんなんだよ」という最高にかっこいい反骨心です。
若い頃にまずこれだけかっこいい牙を剥いている。それが後に「俺自身が世界を愛さなきゃ何も始まらない」と博愛主義に変わったと私は捉えています。
すごくないですか?世界の粗が見えてしまった時、「こんな世界、俺はごめんだ」とかに行きそうなのに。この世を憂えても不思議じゃないのに。
翔くんは頭がいいので多分自我の認識より先に世界の粗が見えてしまったタイプだと思うんですけど、(嵐はみんなそうかもしれない)それでもそのまま真っ直ぐ世界への理想を貫き通している翔くんの生き方は最高にかっこいいと思います。
時々「若い頃の翔くんの原動力は怒りだった」「二十代の頃と今では仕事のモチベーションが違う」なんて言われますが、それはちょっと違うと思う。
彼は昔から今までずっと「世界を愛したい」「世界に愛されたい」と願っているんだけど、それゆえのアクションが若い頃は「愛し愛されることを許さない世界に憤る」だったのが、今は「どんな世界であろうとまずは自分が世界を愛する」に変わっただけだと思います。彼の根本的なマインドは何も変わっちゃいない。
では、なぜ翔くんは「この世界に愛されたい」「この世界を愛したい」と強く思っているのか?
この2つは並べて書くと似ているけれど、実は違うところから来ているように思うので分析してみました。
まずは、なぜ「この世界に愛されたい」と強く思っているか?について。
もしかしたら、「翔くんは家柄もお金も頭脳もビジュアルもパワーもあってあんなに恵まれているのに、なんであんなに愛されようとするんだ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれない。
なぜか?
それは、私の憶測でしかありませんが、翔くんの人生が「みんな」に入れることの少ない人生だったからではないかと思います。
きっと、慶応にいながら両親が共働きで学童に行っていたのも、慶応にいながらジャニーズに入ったのも、ジャニーズでありながら慶応生だったことも、ジャニーズでありながらキャスターを始めたのも、「みんな」がすることではなかった。
これらは皆、「櫻井翔の人生」の特徴です。もちろん、現在のアイドルとしての人生の歩み方も特徴の1つです。
言い換えれば、それらは彼の特徴になるほど、同じ道を歩んでいる人が少ないということです。というか、ほぼいない。
たとえば学校1つとっても、ジュニア同士で自分の学校の話をする時、慶応に行っている自分は他の仲間ほどは分かり合えない。
私の想像でしかありませんが、何もしなくてもマジョリティーに入れるような環境にいた時間は、翔くんの人生の中で少なかったのではないかと思います。
「たくさんのものを持っていること」と「疎外感や孤独を感じないこと」は別の話です。翔くんが経験してきたマイノリティーは誰も悪くないし解決すべきものでもないけど、ちょっとした疎外感は常にある。
「みんなと一緒だ」という安心感は代替がききません。「満足」や「幸せ」があったとしても、人から憧れられたり好かれたりしても、それはそれ。「自分は“みんな”ではない」「放っておくとこの世界の流れに取り残される」という思いは消えません。
世界は常に変わりつつありますが、少なくとも現在は、マジョリティーが圧倒的に生きやすい社会です。
そんな世界において、マジョリティーである事の最大のメリットは「特に何もしなくても世界に受容される」事です。多数派であるときは気づかないかもしれないけれど、少数派から見ればこれは絶対正義です。
「みんな」に完全に入れる経験が少なかった故に「ほっといても愛してもらえるような世界ではない」という認識が強いからこそ、翔くんは能動的に世界に受容してもらおうとしているのではないかと思います。
翔くんにとって世界が「こちらが愛されたいと思って行動しないと愛してくれない存在」だった時間があったから、彼は今も能動的に世界に愛されようとするのだと思う。
さらに、彼が人のやっていないことを成し遂げていけばいくほど、「翔くんが入れる“みんな”という集合」が減っていく。
それが彼の「“みんな”に入ること」への希求を強めているのかもしれないとも思います。
とはいえ、この『マイノリティーであることによる孤独』は人生で誰しも一回は味わったことがあると思います。人生のすべての局面でマジョリティーだった人なんていない。もしいたら、その人は自分の意思ではなく「マジョリティーであること」を最優先に行動している人です。
つまり、逆説的ではありますが、「マイノリティーの経験」がマジョリティーに入る条件の1つでもあるのです。
だから、そんなにマイノリティーに入ることを恐れないで。
そんなこと、ここに書かなくても翔くんは気づいているだろうけれど。
もう一つ、「なぜ「この世界を愛したい」と強く思っているのか?」について。
なぜ、彼はこの世界を愛したいと常に思ってくれているのか?
それは彼がいまだにこの現実世界に夢を見てくれているからだと思います。
この世界は素晴らしい世界だと信じてくれている。世界を愛して幸せに暮らしたいと願ってくれている。
大人になってもこの夢を見続けてくれる人は多くありません。そんな夢を翔くんは見続けてくれている。
しかし、彼は何も考えずに能天気に世界に夢を見ているわけではありません。
自分が世界を愛そうが世界に無関心だろうが世界はそれほど変わらないということを彼はちゃんと理解している。「世界を愛する」という行為自体に夢を見ているわけではない。
その上で、「だったら世界を愛したいじゃん?」と世界を愛することを選んでいる。ここは、彼の美学です。櫻井翔が生きる上での譲れない美学です。
「絶大な効果があるわけではないことを理解しながら美学で選択した行い」は強い。ちょっとやそっとのことでは揺らぎません。
もう1つ、翔くんは世界には素晴らしくないところもあるということも、しっかりわかっている。それは、彼は頭がいいからわかるということに加えて、彼の人生の様々な局面で実感せざるを得なかった。
その上で「より良くなる世界」を夢見ている。そのために自分ができることは何かを考えている。
「欠点を把握した上で見る夢」は強い。なぜって、その夢が覚める要因がほとんどない。客観的理解に裏打ちされた理想はやはり強い。
世界のありのままの姿を理解しながら、それでも「世界は素晴らしい場所であってほしい」と夢見てくれている。
そんな彼の生き様はたくさんの人を惹きつける。
世界に、揺らがない夢を、見ている。そんな人に惹かれないわけがない。
そして、その上「夢物語だと思うかもしれないけど、こんな素晴らしい夢があるんだ、一緒に見ないかい?」とファンを誘ってくれるのです。
彼にとって「夢を見せるよ」という言葉は「この世界を愛せるようにしてあげるよ。」という意味なんじゃないかと思う時があるのは、きっとそういうこと。
この夢は翔くんの「世界に愛されたい」という欲求につながっている気もする。
彼は世界は素晴らしいと信じているから、そんな世界に愛されたいと願う。それは自然なことかもしれない。
世界に愛されたいのは櫻井翔のこれまでの人生から、世界を愛したいのは櫻井翔のこれからを生きる上での美学から。
だから、彼の人生を語る上で「世界」と「愛」は外せない。
私が櫻井翔の自伝を撮れるなら、ここまでプロデューサーとディレクターに語り尽くしてから撮りたい。この思想を全員の共通認識にしてから作り始めたい。(誰か早く「そもそも撮れるわけないだろ」って突っ込んで)
翔くんの生き方、世界の見方で好きなのはこういうところです、という話をしようとしてこんなに長くなってしまった。
こんな長い記事をお読みいただきありがとうございました!!!!!
令和の時代も翔くん、そして嵐が大好きだよ!!!!!