「美しい」を定義する前に世界が美しいものであふれて困る

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嘘はなくても秘密はある  ー相葉雅紀という人ー

Netflixを見る前、わたしが相葉雅紀という人について思っていることを書いたものがあった。

 

 

確かにたぶんそれがアイドルの正解だと思うんだけど、二十年も活動しているのに「パブリックイメージを外れた相葉くんの好み」が一つも見えないのはすごいを通り越して怖い

「意外!それが好きなんだ!へー!」って思ったことない

 

songsでの相葉くんの「初めて言いました、なんでこんなこと言っちゃったんだろう」に溢れてると思うんだけど、相葉くんの得意じゃないことなんて1つしかなくて、それが「自分が思っていることの把握」と「外から見た自分像の把握」の瞬間的な両立じゃないかと思う

相葉くんは同時に両立させ得ないとしても多面的であることは確かだ

 

相葉くんの現在形のSOSを聞いたことがない。多分相葉くんの美学だと思うけどちょっとした怖いとか辛いも言わないから心配になるんだ


こうした「パプリックイメージの完遂」「多面的な相葉雅紀の内包」「相葉雅紀の美学」について、Netflixを見て腑に落ちたことがあったので書いてみようと思う。長いばかりの駄文ですがご容赦ください。

 

 

 

 


Netflix相葉雅紀回で、相葉くんは「どれが本当の自分かわからない」「今までたくさんの感情を押し殺してきた」「ハートを治しているときに何か言われたくない」って言っていた。

相葉くんは言語化がゼロヒャクだ。言わないで黙ってるか、ものすごくはっきり言うか。嘘はないけど秘密はあるタイプだ。言うとなればオブラートに包むってことがあまりない。そんなに言って大丈夫?ってほど、まざまざと伝わる言い方をする。考えたことがそのまま言葉になるから、そういうふうになる。

 

相葉くんのダイレクトな言語化が私はかなり好きだ。「どう伝えようか」というバイアスがある人もいるけど(嵐なら櫻井二宮タイプかな)相葉くんにはそのバイアスはほとんどない。相葉くんの場合、考える速度がそのまま言語化するスピードだ。良い悪いではなく違いとして。

「自分の考え」や「事実」があって、それを伝えるか、伝えないか。その選択しかない。相葉くんは嘘がつけない。濁すことが苦手だ。いつだってまっすぐで、嘘偽りない姿を見せてくれた。その特性ゆえに、相葉くんは人より「黙っていなければいけないことが多い」人だったのかなという感じがする。“ふわっと触れる程度なら話してもいいけれど、はっきり言ってしまうのはあまり良くない”話題に手を出せないわけだから。


あまり、発散しているところをファンに見せていなかったから、今まで押し殺してきたものをため込んでため込んで苦しいんじゃないかって思ったこともある。でも、「発散してるところを見せない」だけで、「発散してない」わけじゃなかった。Netflixでその一部を見せてくれた。心を許せる人との時間に溜まった淀みやガスを溶かし、1人きりで無心になって自分の心と向き合って建て直していく。それが相葉雅紀がこの世界で心の奥の核の部分を曇らすことなく生きてきたやり方。相葉くんは賢い。

なんてかっこいいんだろう。そんな人の周りには良い人たちが集まってくるのも当然だと思う。

 

 

相葉くんの感情表現は至極単純に見える。一つの感情を、ダイレクトにたくさん伝えるように見える。とても単純に「見える」。

しかし実は、“単純すぎる”のだ。「一つの感情を、ダイレクトにたくさん伝える」というのは人間が望む姿であって、人間がナチュラルにできる反応ではない。単純に見える感情表現は、理性というフィルターが一枚かかっている。その裏には「たくさんの感情を押し殺した」相葉雅紀の存在がある。

相葉くんはきっと、本心で感じる前に、求められた姿が体でわかってしまってそれが体現できてしまう人。それ故に「本当の自分がわからない」と彼は言うのだと思う。だからと言って、彼は自分を偽っているのではない。彼はものすごく感情の取捨選択が上手いのだと思う。

 

人の感情構造は複雑だ。本当に「嬉しい」という感情だけ抱くことなんてほとんどない。例えば誰かに声をかけられたとしても、「言ってもらえた内容が嬉しい」「言い方がイラつく」「この状況で言うなんていたたまれない」「言ってくれた人に感謝を伝えなくちゃ」など、様々な感情が渦巻くのが人間の常だ。その中で、なにを取り出して伝えるのか。そこに、その人の人間性が出る。

喜びよりも先に怒りが出てしまう人。ポジティブな感情が先に現れる人。時系列で感じた順に表に出していく人。考えすぎて瞬時に感情表現できない人。いろんな人がいるが、瞬間的な判断は総じて個人の気質や感覚でなされる。

しかし相葉雅紀はこの感情の取捨選択を極めて理性的にする。なにが求められているのか、何がこの場において正しいのか。彼は「理性」で判断する。その上、理性で判断したとは思えないスピードで行うのだ。まるで、ぱっと浮かんだ感情をそのまま表してくれたかのように。それは、相葉くんが今まで歩んだ道のりや、ここまで来るのに必要不可欠だった努力がそうさせているといるのも、もちろん一因にはあるだろう。しかし、「相葉雅紀は感覚的に“理性”が使える人間である」ということがとても大きいんじゃないかと思う。

相葉くんは思慮の結果ではなく、感覚的に、反応として、理性が出る。思考回路ではなく体で理性を使う。理性を体得(!)した者のみがなせる技だ。感覚的に理性が使えることがどれだけすごいか、そしてどれだけアイドルをやる上で強みになるか、少し想像してもらうだけでわかると思う。「咄嗟の反応」を「理想像」にできる、唯一にして強大な技だ。

感覚のように理性を使って感情の取捨選択ができる。相葉くんの秘技だ。

 

 

もう一つ、相葉くんは嵐で一番、「自分のままで生きること」よりも「求められる姿を完遂すること」を選ぶ人だと感じる。

ファンの理想が相葉雅紀の行動をがんじがらめにしているとしたら、これほど申し訳ないこともない。でも、相葉くんはそんな時でも「そんなことないよ?」「アイドルである以上ファンを喜ばせるのが当然でしょ?」と言うような気がするんだ。

いつだって、「相葉くん」は「私たちの想像する相葉くん」を生身で生きていた。少なくともそう見せてくれていた。これはかなり凄いことだ。今この時を生きる生身の人間でありながら、赤の他人が想像する像と寸分違わないなんて。あまり相葉雅紀を知らない人が抱く「相葉雅紀ってきっとこういう人なんだろうな」というイメージにも合わせてくるのだ。普通そうしたイメージは沼入りの際に覆される。「あれ!?こんな人だったの!!」なんてことは推しが増えるたびに皆様が経験している感情じゃないかと思う。

しかし相葉雅紀の沼入りにはそれがない。イメージが拡張されることはあっても、全く違う角度から攻めてくることはほとんどない。相葉雅紀に沼入りしても、深さは変われどイメージ自体は変わらないという人がほとんどなんじゃないか。生身の人間としてこれはもはや狂気である。

なぜこれが可能なのか?なぜ、こんな狂気とも思えるほど完璧なアイドル(=理想像)が実現可能なのか?

 

それは、相葉雅紀が求められた自分をこなす天才だからであり、ありのままの自分を大切にする人だからだ。

 

この文章を読んで混乱した方もいらっしゃるかもしれない。一見両立し難い二つを両立させているとはどういうことなのか、と。

 

その答えを相葉雅紀は冒頭で語っていた。「自分にはいろんな面があるからどれが本当の自分かよくわからない」と。

そういうことなのだ。

相葉雅紀には「自分」と呼べるものがたくさんあるから、その多面性を生かして「自分」を選ぶことで、相手の望む像に合わせながらありのままの自分でいることができる。

加えて、相葉雅紀にはこのたくさんの「自分」を俯瞰する視点がない。多種多様な「相葉雅紀」がありながら、彼には「この状況だからこのモードにしよう」という人格だけがない。それぞれが「自分」だから、それを統括する視点が存在しない。それぞれの面が「自分」として主体的に今を生きているのだ。そうした自己としての「自分」を、相葉雅紀は場面に合わせて選べる。これは奇跡だ。

加えて、この手法を語らず、崩さず、守り抜いてきた。

これこそ、アイドル・相葉雅紀の最大の秘密であり、美学だ。

 

相葉雅紀を国民的アイドルに仕立て上げた、「嘘はなくても秘密はある」という美学だ。

 

 

 


私はとんでもなく凄いアイドルのとんでもなく凄い生き様を文字にしたためてしまったのではあるまいか。

 

どうか、まだ相葉雅紀の魅力を知らない人には「相葉くんはそういう考え方なんだよ!!」とは教えないで欲しい。だってそれは相葉雅紀の「秘密」なのだから。

これだけ長々と書いておいてそれはワガママなのだろうか。でも許してほしい。

相葉雅紀の美学、「嘘はなくても秘密はある」に免じて。

 

 

 

お読みいただきありがとうございました!!